― つまるところ、そう。
 世界の半分は悲劇で出来ている。




 Inclusion:Chapter 01 〜獲得と喪失〜




 窓の外は夜。
 刻は牛三つ。
 けれど、この街は眠らない。

 ・・・不夜城。
 そう呼ぶのに相応しい街だ。

 窓の外には喧噪が満ちて。
 騒ぎ立てる酔漢の声。
 走り抜ける車両の音。
 この街は雑多な叫びに満たされ、染め上げられている。


 窓の内は闇。
 刻は牛三つ。
 小湊京介(コミナトケイスケ)は眠らない。
 そうする代わりに、安っぽいベッド寝台の上で蠢いている。

 彼は、一人ではない。
 男と、シーツと、―そして女。
 いや、それは女と呼ぶには余りに幼く、少女と呼ぶ方が相応しかったが。

 暗闇の中、大輪の華の如くシーツが渦を巻く。
 渦の中心は男と、そして少女。
 絡み合う三者を染め上げるのは、汗と、汗ではない淫らな雫か。

「ひ・・・ぁ・・・ひッ・・・」

 決して広くは無い室内に篭る、押し殺したような叫び。
 悲鳴なのか、それとも嬌声なのか。
 それがどちらかは判然とせず、ただ。
 少女は柔らかくも無い枕に顔を埋め、息を潜める。

 男はただ、一心に、獣のような吐息を漏らし、蠢く。
 片手で少女の背を押さえ、圧し掛かるようにしながら。
 もう片手を寝台の上につき、細い両足の間に腰を割り込ませ。
 その肉の楔を、壊れよとばかりに突き立て、引き抜き、また突き立てる。

 繰り返し、繰り返し、獣の姿勢で交わり続ける。
 己の中に燻る何かが、白い灰を吐き出し満足する為に。

 だが、足りない―。
 何が足りないのかも解らず、ただそう思う。

 ずるりと、淫らな水音を残して楔が引き抜かれ、
 少女は、枕からようやく顔を上げた。
 その表情には怯えと、疲労の色が濃く、頬には涙の流れた跡が残っている。

 京介は華奢なその少女の腕を掴み、少女を乱暴に仰向けにひっくり返す。

「こっち、向けよ・・・」

 身体を捻り、少女はシーツに顔を押し付けている。
 その無理な体勢は酷く辛いはずだが、それでも少女はそうしていた。
 腕を掴まれ、ひっくり返された拍子に、枕は寝台の脇に落ちてしまったから。
 シーツ以外にもう、彼女を守るものは何も無いのだ。

「おい・・・こっち、向けって・・・、言ってんだよ!」

 低く、決して大きくは無いその怒声に。
 少女は大きく身体を震わせ、そして、観念したように涙に濡れた瞳で京介を見た。

 ―視線が絡み合うのは一瞬でしかなく。

 京介はすぐに視線を切り、少女の下半身へと瞳を落とす。
 そこで、避妊具に包まれた自分自身が、鮮血に濡れている事に今頃になって気付く。

 ―チッ、初物かよ・・・。
 声に出さずに呟いて、苦々しい思いでその赤を見やる。

 それを喜ぶような趣味は京介には無い。
 無闇矢鱈とそれを喜ぶ馬鹿な友人も居るが、京介にその気持ちはわからない。
 そんなものはたかだか膜のある無しに過ぎ無いし、第一。
 こなれてもいないそこは、狭苦しいばかりで心地良くは無いのだ。
 ・・・そう、まるで、この街のように。

 馬鹿らしい、と小さく呟く。

 避妊具を付けずに行為に及ぶ連中も居るが、京介はそんな気にはならなかった。
 別に優しさや、道徳観念―そんなものはどこかに置き忘れた―などではなく。
 ましてや偽善者を気取るつもりも毛頭無い。

 ・・・単に、遊びで妙なビョーキを頂いて、後で泣くような羽目にはなりたくないだけだ。

 ざっと目視で、破けたりしていないか確認し、ずり上がっていたソレを引き下げる。
 両手で無理矢理少女の膝を割り開き、M字形に開いた細い足の間に自分自身を導く。

 男と女が触れた瞬間に、少女の華奢な肩が目に見えて震えた。

 胸の奥が少しだけ痛みを訴えた気もしたが、気のせいだと割り切って腰を押し入れる。
 熱く、だが潤いの全く感じられ無いそこは、決して気持ちの良い場所では無かったが、
 それでも京介は構わずに一番奥まで侵入し、そこで動きを止めた。

 ―何故、自分はこんな事をしているんだろうか。

 今更ながらふと、そんな事を考える。
 暗闇の中、窓から差し込む薄明かりに照らされて。
 汗に濡れた白いシーツの上、広がった長い銀髪が鈍く輝いている。

 ―いつものように喧嘩して。
 ・・・いや、それはどちらかと言えば一方的な暴行だったと言うべきなのか。
 どれだけ殴っても蹴っても、いい気分にはならず、ただ鬱屈して行くばかりで。
 だと言うのに、その煩悶を片付ける術が京介には無かった。

 もっと他に、何か無いかとか、そんな事を考えたわけではないが。
 裏路地を歩くその少女を見つけ、その腕を掴み会話も無いままモーテルへと連れ込んだ。

 何故、そんな事をしたのか、自分でも良くわからない。

 強いて言うなら、そう。
 過去、肌を重ねた事のある、少しばかり頭の緩い女達と。
 その少女が同じ生き物に見えなかったからだろうか。


 気付けば、蒼い一対の目が、じっと京介の瞳を覗き込んでいる。
 どれくらいの間、自分はただ繋がったまま、動きもせずに居たのだろうか。

 言葉にできない憤りを感じ、京介は動き出す。
 少女の両手首を、左右の手で掴み、押さえ込んで。
 圧し掛かるように、体重をかけて、自身を突き入れる。
 狭く、浅い、そこに、乱暴に繰り返し侵入する。

 何度も、何度も、飽きる事無く繰り返す。
 蒼い視線はまだ、彼の方を向いている。
 それが何故か苛立たしく、だが、目を背けるなと命じたのは彼で。

 彼の肉の楔が、少女の一番奥に到達する度に。
 押し殺した叫びを漏らしながら、少女は瞳を閉じる。
 閉じたままにしておけばいいものを、律儀に少女はまた瞳を開くのだ。
 ―何故、なのだろうか。
 その理由がどうしてもわからない。
 押し殺した叫びは、苦痛か、快楽なのか。
 わからない、わかるはずもない、わからない事ばかりだ。
 9割9分9厘は痛みでしかないだろうと、心の奥、冷め切った自分が答える。

 それでも、そう。
 それは自分がつながり、与えているのだ。

 何を?

 わからない。

 わからないが確かに、少女は自分の与えるものに反応し、確かな反応を返している。
 痛みか、
 悦びか、
 だが別に、それがどちらでも、どちらでなくとも構わない気もした。
 そのいずれも、そう。
 別に大した違いは無いのだろうから。

 気付けばそっと、京介は頭を垂れていた。
 背を丸め、顔をそっと寄せる。

 瞳を開きかけていた少女が動きを止め、一際大きくその目を開いて。
 京介が自分の唇に、唇を重ねている事に気付いてまたそっと瞳を閉じる。

 ・・・だから、そう。
 別に深い理由など無く、京介もまた瞳を閉じた。
 別に深い理由など無く、そうするべきだと感じた。

 少女の、胎内と同じように狭く、浅い口腔に舌をねじ込む。
 歯に、歯茎に乱暴に舌を這わせて、ついには少女の小さな舌を啄ばんだ。
 舌を絡め、無理矢理に引き摺り出し、唇で挟み込み、軽く歯を立てた。

 背にかいた汗が、背骨を伝って落ちていくのを感じる。
 目を閉じ、暗闇に閉じ込められたはずの自分は、だが。
 目を開いていた時よりはっきりと、少女の存在を感じていた。

 目を開き、少女の両手首を戒めていた両手を放す。

「―そういや、おまえさ。」

 熱く、しかしどこか冷めた脳髄で、京介は呟く。

「・・・っ?」

 目を瞬く少女の事を、少しだけ可愛いと思いながら。

「なんてんだ?」

 問いかける。

「―え?」

「だから、名前だよ。
 名前なんてんだ、おまえ。」

 不思議な事を聞かれたかのように、少女はわずかに逡巡し、そして。

「・・・セツナ。
 ワタライ、セツナ、―です。」

 そうか。と呟き、京介は目を閉じた。

 足りない、足りない、足りないのだ。
 もっと、もっと、もっと。

 ―何が、なんて事は考え無かった。

 ただ、少女の両膝を両掌で包み、足を無理矢理開かせる。
 最初に両足を割り開いた時よりも、ずっと抵抗は少なかった。
 上半身を前に倒し、腰を押し込み、深く、深く侵入する。
 少女が声にならないうめきを上げるが、京介は止まらない。
 奥へ、奥へ、奥へと容赦無く入り込む。
 気付けば乾き切っていたそこはいつの間にか緩やかにぬかるんでいるが、
 それはきっと決して快楽の故ではない。

 誰もが、誰もが、そう、誰もがそうだ。
 当たり前のように痛みを恐れる、そのように出来ている。
 だから身体は正直に、傷つかぬように、傷つかずにすむように反応する。

 そのぬかるみはただ、それだけの事実に過ぎ無い。

 ―そう思うとなぜか、脳髄の奥で薄暗い炎が灯る。
 理由などわからない、わからないからもう、考える事をし無い。

 少女の両脇に肘をつき、両手で華奢な肩を掴む。
 腰を落とし、一番奥に自分が届いている事を確認して。
 僅かに腰を引き、また押し入れる。
 引き、押し入れ、また引き戻す。
 徐々にその動きは大きくなり、寝台の揺れも軋みも大きくなってゆく。

 頭を垂れ、殆ど発育しておらず、膨らみかけた程度の双丘に顔を埋める。
 荒い息を吐きながら、かすかに存在する谷に唇を落とした。
 甘いとも思える少女の香りが鼻腔を突く。

 少女の手が、おそるおそるさしのばされ、京介の首に巻きついた。

 ぞくり、と。
 背筋に電流にも似た感覚が走る。

 熱い何かが、自分の最奥で渦を巻いているのがわかった。
 頭蓋の奥に生じたその熱は、背筋に沿って下ってゆく。

 蠢く身体は休息を欲し、肺は空気を求め、息はどんどんと乱れていく。
 けれど京介は止まらない、止まれない、止まれないから動きつづける。

 背筋をくだり続ける熱は、ついには腰へと辿り付き、
 消える事無く尚温度を上げ、脳髄に潜む京介の理性を焼き蕩かす。

 弾けそうになる何かを、無理矢理抑え込み、ひたすらに繰り返し動き続ける。
 何故か?
 わからない。
 だから悩むのは止めにした。

 どれだけ突き入れ、引き抜き、また突き入れただろうか。
 限界は、唐突にやって来る。
 その瞬間、京介の意識は完全に焼き切れている。
 本能に任せて腰を突き入れ、下半身を密着させる。
 灼熱の塊は肉の楔を駆け抜け、少女の最奥へと至った。
 2度、3度と痙攣を繰り返しながら灼熱を吐き出し続ける肉の楔。

 少女はキツく瞳を閉じ、彼女を繰り返し責め苛む灼熱にのたうつ。



 ―どれだけの間、そのままで居たのか。

 荒い呼吸が収まった頃、京介は上体を起こした。
 接合部に手を伸ばし、避妊具の根元に指をかけて腰を引き、少女からそっと離れる。
 鮮血と淫らな肉汁に染まったそれを見下ろし、舌打ちしながら避妊具を引き抜く。
 適当に部屋の隅に投げやり、面倒になってそのままジーンズに足を通した。
 上半身裸のままサイドテーブルの上から煙草とZIPPOを取り上げ、乱暴に火を灯す。
 ソファに気だるい身体を投げ込み、目を閉じて、深く煙草の煙を吸い込んだ。

 床の上に灰が落ち、毛足の短い絨毯が緩やかにこげるのを見て舌打ちし、
 乱暴に踏みつけて消し、サイドテーブルの上の灰皿に手を 伸ばしかけてふと、自分の携帯が目に入る。

 一瞬だけ逡巡し、煙草を咥えたまま携帯を掴み上げると、ベッドの上に座って窓の外の夜空を見上げていた少女へと、
 それを投げて寄越す。
 すぐ脇に飛んで来た携帯に驚いたように身体を竦ませ、少女はそっとそれを見下ろした。

「―使い方、わかんだろ。
 ・・・おまえ、携帯持ってるか?」

 灰皿の縁に指先を引っ掛け、引き寄せながら京介は問いかける。
 少女はコクリと頷いて、きょろきょろと周囲を見渡した。
 自分の携帯を、というか自分の衣服を探しているのだと、ややあって気付く。
 たぶん、引き剥がした上着やスカートと一緒になって、寝台と壁の間に落ちている。
 京介はぼんやりとそう思ったが、特にそれを教えたりはしなかった。

「俺の携帯に番号入れとけ。
 気が向いたらまた呼ぶからな。」

 拒否権など与える気も無かったが、不思議と少女は嫌がるそぶりを見せなかった。
 ・・・あるいは、いやおそらくは、単に諦めただけだろうと京介は思う。

 薄闇の中に少女が携帯に触る小さな電子音が響き、京介はなんともなしにそれを聞きながら煙草をふかしていた。
 闇の中に赤く灯った煙草の先の炎を見つめながら、ぼんやりと考える。

 ―また呼ぶ? 馬鹿か俺は。しかも携帯渡して何やってんだ。

 迂闊、そう、迂闊だったかも知れない。
 だがまあ知った事か、と思い直した。
 別に携帯の中身を見られて困るような事も、無い。
 ・・・そもそも怖れる必要のある相手にも見え無いのだが。


 ふと視線を上げれば、寝台の上で小さな尻が揺れている。
 何やってんだ、アイツ、と思い、それから少女が寝台と壁の隙間に落ちた自分の衣服を拾おうとしている事に気付いた。

「―おい。見えてんぞ。」

 言った瞬間に大きく少女の身体が震え、そして消えた。

「・・・?」

 思わず腰を浮かせて見やれば、当の本人がその隙間に落ちていた。
 そう、人が突然消えたりするはずもない。
 その結論に急に馬鹿らしくなって再び腰を落とし、―「あちッ?!」
 すぐ指の近くまで短くなっていた煙草を思わず手放して床に落とした。
 舌打ちしながらしゃがみ込み、短くなった煙草を摘み上げ、灰皿に投げ込む。

 視線を上げると、寝台と壁の隙間からひょっこりと頭だけを出して、目を丸くしながら少女がこちらをみている。

「うぜぇ。
 ・・・何見てんだ、とっととやれよ、馬ァ鹿。」

 低く、唸るように京介が告げると、少女はのたくたと寝台の上に登る。
 深く、ため息をついてソファに深く体を沈め、そこで初めて眠気を自覚する。

 眠たいなどと感じたのは随分と久方ぶりな気がし、京介は薄い唇を笑みの形に歪めた。

「あの・・・。終わりました・・・、けど・・・。」

 恐る恐ると言った様子で呟く少女に適当に「そうか。」と頷きながら立ち上がる。
 ―酷く、眠い。

「服着ろ。
 フロントに電話してドア開けさせるから、帰れ。」

 そう告げて、少女の方を見ると、既に彼女は衣服をまとっていた。
 ・・・軽く眠気を感じただけだと思っていたが、少しうとうととして居たのかもしれない。

 サイドボードの上で小さなカバンをごそごそいじり出した少女を横目に見ながら、
 壁際に歩み寄って受話器を取り上げ、内線電話のプッシュキーを押した。

「女が一人で出る。
 俺はもう一眠りしてからだ。
 ・・・延長確認の電話とかはするな、鬱陶しい。」

 紋切り型のお決まりの挨拶を口にするフロントには耳を貸さず、言いたい事だけ言って乱暴に受話器を下ろす。
 ややあって、入口ドアのロックの外れる音が響き京介は少女に手で「出ろ」と示した。
 ドアの前まで歩いて行き、そこで少女は足を止めて振り返った。
「あの。」

 その小さな声は、眠気に襲われつつあった京介の耳に辛うじて届き、

「・・・あ?」

「貴方の、名前・・・、聞いても、良いですか・・・?」

 どうしょうも無くただ眠い京介は、深く悩む事もせずに返事をする。

「京介。
 ・・・小湊京介だ」

 投げやりに告げて、京介はベッドに身体を沈ませた。
 小さく頷き、小声で京介の名を呼ぶ少女が見えた気もしたが、眠りに囚われた京介にそれは見えていない。

 だから、そう。
「また、会えますか?」と、そう呟いた少女の声もまた、京介には届かない。

 あるいは、眠りに落ちかけた脳髄が見せた幻影やも知れないが。





 目を開ける。
 窓の外はまだ暗く、どれだけ自分が眠っていたのかは判断がつきかねた。

 サイドテーブルから携帯を取り上げ、現在時刻を確認する。
 意外な事に、2時間程しか眠っていなかった。
 体感では6時間程も寝た気がし、頭の奥はすっきりとしている。

 と、そこで初めて携帯からぶら下がったそれが視野に入った。

「―ストラップ?」
 それは兎だった。
 何の変哲も無い、安っぽいプラスティック製の、不細工な兎のストラップ。

 こんなものをつけた覚えは無い。
 そもそもストラップのような邪魔なだけの物をつける趣味はない。

 ―では、誰がつけたのか。

 モーテルに入った時にはついて無かったのは確かだ。
 だとしたら、何も難しい事は無い、犯人足り得る人間は一人だけしか居ない。

 ストラップの紐に指を引っ掛け、思い切りちからを込めて引き千切る。
 ・・・そうしかけて、ふと思い止まった。

 別に、いいか、と思い直した。
 邪魔なだけではあるが、かと言って外すのも面倒ではあるし。
 何より、まあ、そんな気分になったのだ。
 難しい事ではない、ただの気まぐれ、遊び心に過ぎ無い。

 短縮キーを押して電話帳を眺める。
 あの少女の名は何と言ったか。

 元々登録件数の多い方ではないが、
 ―というか、登録された番号は一つだった。

「・・・そういや、こないだ機種変したばっかだな。」

 呟いて、たった一つ、登録された名前を見る。

 ―渡来雪菜。

「あー・・・、なんて読むんだ、これ。
 タライ? 違うか、えーっと・・・。」

 読めなくとも別に、何も問題は無い。
 問題は無いのだが、なんとはなしに気になった。
 記憶の井戸に釣瓶を落とす。
 じりじりと、重いそれをその奥底から引き上げる。


「―ああ、ワタライ、か。
 ワタライ・セツナ、だったな。」

 渡来(とらい)、つまりは外人の意か。
 そして、雪の菜と書いてセツナ。

「・・・見た目に似合い過ぎの名前で笑っちまうわ。」

 呟き、苦笑して、寝台から立ち上がる。

 イスの背から上着を取り上げ、出口ドア横の壁にはまり込んだ自動清算機に万札を2枚押し込み、釣り札だけ掴んでドアを抜けた。
 上着に腕を通しながら、曲りくねった階段を3段飛ばしで下り切って、モーテルの車両玄関を抜け、薄暗い路地を足早に歩く。
 空は薄く輝きを増しつつあり、夜明けの訪れを感じる事ができた。
 かすかに白みはじめた天に黒々とした雲が流れ、いつ一雨降ってもおかしくは無いように思える。

 なんとなく空を見上げながら歩いて居ると、肩が何かにぶつかる。
 何か障害物があったっけ、などとぼんやり思いながら視線を落とすと、
 頬傷のある、スキンヘッドのゴツイ中年がそこに居た。
 男の後ろには取り巻き―、というか恐らくコイツはスジ者で、後のは舎弟かな、と頭の片隅で思い―が5人程付き従っている。

「なんやコラ?!
 何さらすんじゃワレぇ!
 おんどりゃ―」

 恫喝の声をあげる男を見つめながら、京介が思ったのは、「めんどくせぇ」というただそれだけの事で。
 舎弟の一人が「但馬さんマズいっスよ、こいつ小湊っス、例の―」と引け腰になりつつスキンヘッドの中年
 ―恐らくはこの男が但馬と言うのだろう―に耳打ちしているのが聞こえ、面倒事にならずに済むか、と思えたのも一瞬だった。

「ダボが! 堅気に舐められて極道つとまると思ってんかッ! ああッ?!」

 怒声を上げ耳打ちした舎弟を突き飛ばし、田島がこちらに向き直る。

「ワレぇ・・・、なんぞハバ効かせとるようやが、
 きっちり上下はわからせとかんといかんよなァ、人生の先達としてのォ?」

 小首を傾げ、下からねめつけるような視線を向けて来る但馬に、隠しもせずに京介は深々とため息をつき、そして。

「・・・あのさ。但馬さんっったっけ?」

「ああッ?」

 殆ど頬が触れそうな距離で息を吹きかけて来る但馬に京介ははっきりと、

「アンタ、息がくせぇよ。
 顔近づけないでくれる?
 できれば消えて欲しいんだけど、俺の前からさ。」

 言った瞬間には但馬の太い腕が京介の襟首をがっしりと掴んで。
 但馬が口を開き次の台詞を吐く前に、ため息をつきながら京介は但馬の手に自分の掌を重ね、指を相手の手に引っ掛けて手首を返しながら押し下げた。

 半回転しながら但馬の肉付きの良い身体が崩れ、地面に転がる。

「アレ、立ち眩みっすか?
 ちょっとダイエットしないと成人病とかヤバイんじゃないすかね。」

 文字通り、見下しながら口の端を歪め、京介が言い、顔を瞬間的に赤を通り越してドス黒く染めた但馬が歯を剥き出しながら京介の足に手を伸ばした。
 そうされるのがわかっていたかのように京介は足を上げて但馬の手を避け、逆に但馬の手の上に思い切り右足を振り下ろす。
 声にならない悲鳴があがるのを無視し―

「―でさ。
 あんたらは加勢しなくていいの?」

 但馬の手を踏んだまま、視線を上げて京介は但馬の舎弟4人―1人は但馬に突き飛ばされて転んでからまだ立ち上がっていない―へ挑発的に声をかけた。
 呆然と成り行きを見守っていた4人が、その言葉で我に返り、そして拳を固めて突っ込んで来る。
 一人目の拳を上半身を捻って避け、左足を跳ね上げて鳩尾に膝を叩き込む。
 身体をく≠フ字に曲げた一人目を脇に突き飛ばし、ほぼ同時に突っ込んできた2人目と3人目の拳を、両手で一つずつ平然と受け止めて。
 片方を押し、片方を引き寄せ、反射的に押し返し、あるいは引き返した瞬間に逆に引き、押しやり馬鹿げた喜劇のように転倒させ、容赦無く左の爪先を転んだ相手の首へ突き入れ、返す刀でカカトをもう一人の耳の後に叩き込む。
 そして、悶絶し、湿った地面の上をのたうちまわる3人には一瞥すらくれず、京介は4人目に視線を投げた。

「・・・アンタは、止めとくかい?」

 余裕有り気に言う京介に、4人目は嫌な汗をかきながら1歩後ずさる。
 彼は気付いてしまったのだ、平然と3人を悶絶させなお、京介が但馬の手を踏んだ右足を動かしていない事に。
 無論、田島ももう片手を添え必死に京介の足を退けようと足掻いている。
 ・・・にも関わらず、そんな状態のまま京介は3人の攻撃を捌いてみせたのだから、最早場数を踏んでいるとか修羅場を潜っているとか、そんな水準の話ではない。

 だから恐らく、4人目の選択は最善の選択だった。

 男は懐に手を入れ、そして粗悪な密輸拳銃を引き抜き、躊躇い無く京介に向ける。

「っだるぁあっしゅざっああああああッ!!」

 興奮と錯乱からか、意味不明な叫びを上げながら男は親指で安全装置を外し、人差し指を引き金にかけ、そして。

「止めといたが良いと思うけどね・・・。」
 最後の一押しはそれでも眉一つ動かさずにそう呟いた京介の態度だった。
 男の人差し指が引き金を引き、秒速200m超の鉛の死神が解き放たれる。

 ―が、しかし。

「や、だから、あたらねぇから止めとけって。」

 苦笑しながら平然とそう告げた。
 無論弾丸は京介の身体を捉えて居ない。
 外したのか?
 そう考える前に男は再び―否、2度3度と引き金を引く。
 裏路地に篭った銃声が響くが、京介はつまらなさそうに、

「手が震えてるぜ。
 それじゃ避けるまでもねぇ、当たってねぇよ。」

 ―半身引いた姿勢で平然とそう告げた。

「なん、―見えてッ、嘘だろ・・・?」

 さすがに完全には見えてねぇよ、と小声で呟き。

「ほら、ポリが来る前に―」

 言いながら京介が一歩近寄ろうと、して。
 恐怖に慄いた男の指先が反射的に引き金を引き絞った。

 ―銃弾は肉を裂き、骨に達した。
 屠殺される豚のような悲鳴を上げ、地面を転がる。

「・・・っと、危ねぇな、当たったらどうするんだ」

 眉をしかめながら京介は呟く。
 右足は軽く地面から離れた状態で持ち上げられている。

 地面を転がり、ビルの壁に突き当たって止まり、そこでまた悲鳴を上げる但馬を見て、
 京介はため息混じりに「おい。」と銃を握ったままの男に声をかけた。

「ボーっとしてねぇでさ、兄貴分医者に連れて行ったら?」

 半眼になりつつ自分を見る京介の視線に、男は拳銃を投げ捨て走り出す。
 地面で唸っていた3人は苦しそうに脂汗を流しながらもよろよろと男の後を追い、
但馬に突き飛ばされたお陰で無傷で済んでいた5人目が腕から血を流す但馬に肩を貸しフラつきながらも逃げて行った。

 路上に残された拳銃を迷惑そうに眺めた後、京介はハンカチを取り出して直接触れないように拳銃を摘み上げ、近くにあったポリバケツに投げ捨てる。

「―めんどくせ。
 ・・・この辺の連中はいい加減身に染みてるかと思ってたけどな。
 ああいうのも居るのか、まだ。」

 呟き、京介はガシガシと頭を掻き、ため息をついて前髪をかきあげた。



 ・・・昔から、喧嘩にせよ試合にせよ、身体を動かす事で負けるという事が、小湊京介には全く無かった。
 相手が次にどう動くか、どう攻め、どう守ろうとしているか。
 何となく、彼にはその全てが想像できてしまうのだ。
 また、特に鍛えているわけでも無いのに、筋力も持久力も人並み外れている。
 そして、その予感≠ヘ成長するにつれて強くなり、結果京介は、不意を突かれるとか裏をかかれるという経験が全く無いまま、現在に至った。
 それだけでは無く、意識して相手の動きを『見よう』とすると、まるで視界内にある世界の全てが何分、何十分の1にも遅く動いているかのように見えてしまいさえする。

 だから、話になるわけが無いのだ。
 次にどう動くのかわかっている相手が、自分よりも何十分の1でしかない速度で動いたとして、それを避けたり防いだりするのが難しいはずも無い。

 そして、相手がどこに重心を置いているのか、どこを押し、あるいは引けばその重心を崩して転ばせたり投げたりできるのか、背後に居る相手がどうしているか、それすらも何となくわかってしまう。

 ―相手がチンピラだろうが、ヤクザだろうが関係は無い。
 どいつもこいつも同じ、京介から見れば赤子のようなものだ。

 戦い、勝てば、より強い人間が自分に挑みに来る。
 その悪循環、呪われた連鎖はいつから続き、いつまで続くのか。
 考えても仕方の無い事と、割り切るのもいい加減疲れつつあった。

 一番最初に誰かと戦った時、自分は何を考え何を思ったのだったろうか―。


 ふと頬に触れた水の感覚に、京介は空を見上げた。
 夜はもはや完全に明け、しかし尚暗い曇天からは雨が降り始めている。

 無数の落ちて来る雨粒を眺め、スローがかる世界に頭痛を覚え、彼は目を閉じた。

 小さく頭を振って目を開く。
 銃声は近隣の住人に確実に聞こえているはずで、いくらこの界隈が物騒だからと言っても「いつもの事」と聞き流される事はさすがにあるまい。
 だとしたらさっさと立ち去るのが無難か―


「・・・フン。
 オマエ、何者だ?」

 突然背後からかけられた声を、最初彼は認識しなかった。
 何故なら、彼はそこに誰かが居ると全く気付いて無かったから。
 ・・・彼の22年の人生の中で、人の気配に気付かなかった事などただの1度も無く、
 ましてや今は交戦直後で神経が一際敏感になっているのだ。
 少し意識を研ぎ澄ませば、すぐ脇に立つ建物の中に何人居るか、何をしているかさえ手に取るように認識できるというのに。

「―何、何だと、おまえ・・・?」

 振り返った視線の先、雨靄の中に立つのは髪の長い女だった。
 片手で傘を握り、もう片手には通学カバンを持った、平平凡凡な女。

 声の時点で気付くべきではあったが、気配を読む能力に頼り続けて来た京介には、それが女―、それも若い女である事に振り返るまで気付けなかった。

 黒か紺か、雨靄で判然とはしないが、ともかく黒系の色のセーラー服を着て、朱色の短いタイを締めたそいつ
 ―見た所16・17位―は、眉を寄せながら問いかけを繰り返す。

「何者なんだ?
 最初は少しばかり運動神経の良い、武術経験のある常人(>フローレス)かとも思ったが。
 少々人として規格外な挙動を取っていたな。
 ―銃の暴発に、地面に転がって居た男を片足で引き起こして盾にしたな、オマエ。」

 ・・・そんな真似、フローレスにできるはずもない。と、少女は告げて。
 雨に濡れて行く裏路地を迷い無く京介の方へと歩いて来た。

「フロー・・・? 何言ってんだオマエ?」

 訝しげに、そして余裕あり気に呟いてみせながら、しかし彼は嫌な汗を背中一面にかいている。

 こんな事は今まで一度も無かった。
 気配を読み間違える事も、そしてあの一瞬で起きた―、京介が取った行動を、トップスピードに乗った自分の動きを(・・・・・・・・・・・・・・・・・)、完全に見て取れるような人間など今まで一人も居なかったのだ。


「何を言われているかわからないと?
 フン・・・、無自覚の所持者(インクルージョン)か。
 珍しいがまあ、在り得ない話でも無いな。」


 不意に、胃の内側が引っ張られるような感覚に襲われ、喉が酷く乾いている事に京介は気付いた。
 吐き気を覚え、頭痛がし、今自分の方へ歩み寄って来る女をどうにかしなければならないという強い衝動に駆られる。

 そして、小湊京介はその衝動に従った。
 地面を蹴り、容赦も遠慮も無い最短最速の動きで襲い掛かる。
 敢えて、建前も何も無い本音で言うならば、
 ・・・その瞬間確かに、小湊京介は本気で彼女を殺す気であった。

 ―だが。



 気が付けば空が見えて、雨が降っていた。

 何が起きたのか、何が起きているのか、自分はどうなったのか。
 わからない、全く想像もつかなかった。
 わからないからとりあえず立ち上がろうとして―。

 不意に訪れた激痛に、起き上がり切れずにうつ伏せに転がった。
 鳩尾のど真ん中に、巨大な鉄杭を突き立てられたような感覚。
 胃の中の物全てを路上に撒き散らしながら、そこで初めて気付く。


 胃の内側が引っ張られ、喉が酷く乾き、吐き気を覚え、頭痛がしたそれが。

 ―物心ついて初めて感じた紛れも無い恐怖≠セったのだと。

「馬鹿が。
 全く・・・、考え無しも良いところだ。
 無策にただ速度に任せて正面から飛び込むな。
 ・・・反射的に蹴りが出てしまったじゃないか。
 カウンターで思い切り入ったし、胃が破裂していてもおかしくないぞ。」


 ―蹴り。

 女は右手と左手それぞれに、傘と鞄を持っている。
 なるほど確かに、咄嗟に使えるのは蹴りだというのは理に適っている
 だが、それこそ在り得ない話だった。
 片足で蹴ると言う事は、裏返せばもう片足だけ(・・)で突撃の衝撃を受け止めなければならないと言う事だ。

 激痛に塗り潰された脳髄の片隅で、そんな事は在り得ない。と思う。
 そんな事が、在り得るはずが無い、と。
 ―自分が負けるはずが無い、と。


 うつ伏せに屈み込んだまま嘔吐を繰り返す京介のすぐ横に女は歩み寄り、彼の肩の下に爪先を入れて片足で彼をひっくり返す。
 痛みで満足に動く事も出来無い彼は、無様に濡れた地面の上を転がり、転がった後には胃の内容物が点々とこぼれて弧を描いていた。

「・・・古来、宝飾品(アクセサリ)の大半が(リング)の形状をしていた理由がわかるか?」

 ―何をコイツは、言っているんだ?
 痛みに淀んだ脳髄が言葉にならない言葉を紡ぐ。

「・・・指輪然り、首輪・腕輪然り。
 途切れる事の無い環は、永遠・循環を意味する。
 ―古来、宝石には魔力があると信じられていた。
 アクセサリとはつまり、護符(アミュレット)であり呪具(タリズマン)
 宝石の持つ魔力を閉じ込める最小の魔法陣―」

 地面を汚した嘔吐物が、雨に洗い流されて行く。
 その中に混じって、異様なものが1つある事に、京介は気付いた。

 正五角形の面を12個を持つ立体。・・・つまり、正十二面体だ。
 それが、自分の吐瀉物に混じって転がっているのだ。
 大きさは掌にすっぽりと収まる程度、直径で10cm弱程もある。

「―プラトンの立体。
 正十二面結晶体(ドデカヘドロン)
 ・・・驚いたな、第五石か。」

 僅かな興奮を滲ませ、少女が呟くのが聞こえる。

「―何を、言ってんだ・・・、畜生・・・。」

 畜生、と繰り返しながら京介は濡れた地面に手をつき立ち上がろうと足掻く。
 だが、全く力が入らない。
 まるで背骨が、いや、全身の骨と言う骨が全て抜け落ちてしまったかのようだ。

「―そこでおとなしく寝ていろ。
 長い間ずっと宝脈(ベイン)≠ノ依存して来たのだろうからな。
 今のオマエは、正しく半身を失ったに等しい状態だ。」

「何、言って・・・」

 止まらない吐き気に顔を歪めながら、どうにかこうにか顔を持ち上げ、自分を見下ろす少女を見上げる。

「―わからないのか。
 オマエの強さはオマエ自身の才能や努力に由来するものではないと言う事だ。
 オマエは今まで、自覚しないまま宝脈(ベイン)ちから(・・・)に頼って来たのさ。
 精々心を入れ替える事だな、もうオマエは人並み―、いや、人並み以下かも知れんが。
 何にせよ、間違い無く今までよりずっと、ずっと弱い(・・・・・)。」

 哀れむように笑い、少女は地に落ちた正十二面結晶体(ドデカヘドロン)へとその視線を落とす。
 そして、ポケットから花柄の可愛らしいハンカチを取り出し、直接触れないようにそっとその結晶を拾い上げる。


「―さらばだ、傷無し(フローレス)。」

 呟き、少女は歩み去って行った。
 小湊京介はそれをただ見つめる事しかできず。

 ・・・だから、彼は生まれて始めて自分が「弱い」事を、―泣いた。